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赤心社の歴史

鈴木清

鈴木清は摂津国三田藩九鬼家の重臣で、幕末の風雲険悪になった嘉永元年4月29日三田屋敷町に生まれ、藩の造士館で文学武芸を学び馬術をもっとも得意としました。維新後の廃藩置県に際し、神戸に出たが事業の第一歩につまづきました。

この時、米国神学博士デビスに神学と英語を学びました。当時の人は、キリスト教を嫌い暴力をもって迫害しましたが、彼は、デビス、クラーク両牧師を助け、堂々と社会の風潮に逆らい同士11人と日本初の組合派第一教会の基礎を確立しました。これが現在の神戸教会の前身です。

また、海外からの缶詰類の輸入が巨額に達し、正貨が海外に流出することを憂い、日本初の牛肉缶詰業を創始しました。

そして、明治13年に北海道の資源に注目し、赤心社を組織して初代社長になり内地人を移住させ開墾と牧畜業を進めました。さらに、馬の改良で当時の馬政局から数回にわたり賞を受け、日高産の馬の名声を高めました。

大正2年12月28日に脳疾病で倒れ、大正4年3月21日に68歳で死去しました。

加藤清徳

加藤清徳は、天保12年4月28日岡山県津高郡豊岡村(現在の加茂川町)で坂本織居の三男として生まれました。加藤政雄の養子になり岡山で神官の修業をしていた頃、明治維新後の欧化政策に伴って神戸に邪教信者が増え横行していると聞き、キリスト教撲滅に乗り込むが、キリスト教との接触のうちに、逆に折伏され心機一転し気概を北海道開拓に打ち込むことになりました。

明治13年3月鈴木清・橋本一狼と3名で発起人となり、赤心社設立趣意書を発表し、同年8月創立総会で副社長に選ばれ、9月には入植地所選定員として北海道に渡り、浦河郡西舎村に入植地を確保し、翌14年の第1回移民が浦河に到着するとともに開拓を開始しました。

明治19年病気を理由に退職しました。

元浦河教会

元浦河教会は、田中助牧師他13名の教会設立者によって明治19年6月26日に創立されました。このように長い歴史を持つ教会は、全道においても数少なく貴重な建築物です。

当教会の設立にあたっての沢茂吉の功績は多大なものでありました。同時に、その先駆者としての鈴木清・加藤清徳両名も忘れることができません。当時、開拓民にとって最大の苦痛は、教育施設と精神修養の機関がないことでありました。

そのため、元浦河においては明治19年に教会が建てられるまでは、二間半に五間(約41平方メートル)の粗末な草小屋で沢茂吉が指導にあたっていました。彼は、月曜から土曜まで寺子屋式の教育を行い、日曜日には安息日学校を開いてキリスト教の講話を行っていました。前者が町立荻伏小学校に、後者が元浦河教会と日曜学校に結びつき現在に至っています。

こうした元浦河教会の存在は、開拓民にとって精神的なよりどころとなり、 開拓事業を進めるうえで大きな役割を果たしました。

もとうらかわきょうかいの写真

開拓地をもとめて

副社長加藤清徳は学農社社長津田仙に助言を受けながら、明治13年9月地所選定員として赤峰正記とともに北海道の開拓使庁に出頭し、道内各地の気候風土・人情・交通事情などの説明を受けました。

そして、土地の面積は狭いが気候温暖・交通の便などから胆振日高地方がよいだろうということで、島松・千歳から白老に向かいましたが、同地は火山灰で見込みがありませんでした。そして、さらに幌別まで南下しましたが土地が狭いので、室蘭から北転して日高に入りました。佐留太(現富川)・静内にはすでに先着移民がいたり、元浦河には農家が三戸だけという状況で未経験者には心細く感じられました。

浦河郡役所の山田郡長は、西舎を推薦してくれました。尾田忠平に案内された現地はすでに長崎の団体が入植していましたが、三方山に囲まれ広くて肥沃な土地が広がっていました。

先住者による世話も期待できそうだし、浦河港にも近いなど条件は良さそうなので、開拓使庁に行き10年間で開墾した土地は無償で払い下げるということで、100万坪が認められたので入植地を西舎村の北部に決定しました。

第一回移民の入植

明治14年に募集できた株が600に達したので、移民に応募した広島・兵庫からの50余名を引率しいよいよい浦河に向かいました。しかし、函館まで着いたところで、当時航海が不便なうえにあいにく東風が強烈であったため出帆の機会がなく20日余りも函館に滞在してしまいました。

しかし、函館支庁に上願することによって官有汽船弘明丸で浦河に行けることになりました。そこで移民は他に農具・什器等を積むために帆船も雇い、弘明丸に乗り5月19日に浦河に到着しました。

しかし、農具・什器等を積んだ帆船は不幸にも暴風に遭い遠く千島に漂流し、更に、西舎開拓地では小屋掛けの準備を進めていたが出来上がっていませんでした。そのため、一時老幼婦女を浦河市街に滞在させ、壮者により伐木や小屋掛けを急ぎ落成させることで、ようやく開拓地に移住することができました。

しかし、移民の中に航海中に腸チフスに感染した者があり、これが流行して10余名の患者がでました。その費用がかさむなど度重なる種々の障害に移民は失望落胆し開墾は少しもはかどりませんでした。

この時、鈴木社長が開拓地を視察しましたが、ほとんどの移民が離散し役員と移民数名が7反歩の新墾地に留まるという惨めさでありました。前途に不安を覚えた社長は自ら札幌に赴き、耕牛5頭と器械を購入したり官に要請していた移民を招集し奨励して、ようやく9月より開墾に着手しましたが、季節が遅れていたので、作付けもできず18町歩の新墾に留まりました。

第二回移民の入植

明治15年、開拓地の管理人に兵庫県士族沢茂吉を採用し、彼を部長に和久山磐尾を初期として再び耕夫の募集を行いました。同年4月、愛媛・兵庫・広島三県から集まった士民男女80名余りを、沢茂吉が引率し開拓使御用船で浦河へ向かって出帆しました。途中、函館以東は風波が荒く困難を極めましたが、一人の落後者も無く25日間で無事浦河に到着しました。

今回の移民は、元浦河に入植しました。この地の管理を沢茂吉、西舎地区を加藤副社長が行い努力しましたが、開墾は容易に進みませんでした。しかし、米国製ソルキープラウの購入と耕牛・農具が払い下げによって次第に条件が整備されると、新墾地は40町歩に増加し播種反別は町歩におよびました。(注:1町歩は約9,917平方メートル)

さらに、10月鈴木社長は開拓地に来て諸事を計画しました。移民の耕工夫を三種に区分し、第一部を墾成組と称して独身者をこれに当て、第二部を墾成地割渡人と名付けて有家族者を当て、第三部を義務小作人と称し耕作一途に従事させることによって開拓事業が進められました

 

明治18年当時の駅周辺の赤心社開拓者の住宅

駅周辺の赤心社開拓者の住宅(明治18年)

当時の主な事業

副社長の沢茂吉は、風土が牧畜に適することを察して、明治19年社業として牧畜を創設しました。まず、土産の牝馬数十頭および南部産種牝馬を購入しました。その後、北海道庁から「アルゼリー」「トロッター」両種馬の管理を委託され、新冠御料牧場より良牝馬18頭を購入して改良を図りました。

また、社員2名を真駒内種畜場に派遣して実地牧養の技術を習得させるなど、逐年子馬の繁殖とともに厩舎の改築や牧場の整備に努めました。社有牧場の経営とともに、その成績を村民に説明して産馬事業の奨励を行いました。

なお、赤心社牧畜業の他に明治19年から商店の経営を始め大通3丁目(現小野写真館の位置)に店舗を構え、同23年には大通2丁目(現NTTドコモ日高産商の位置)に商店と土蔵を移転新築しました。同30年には三石町鳧舞村にも商店部支店を開設しました。

明治21年には養蚕業を始めました。同26年には果樹園芸を行っています。同27年には工場(現荻伏駅の東側)を新設して醤油の醸造業も開始しました。工場は大正3年に荻伏市街地に移設し醸造設備を充実させました。

赤心社は、この他にも多方面の事業を行い開拓事業を成功させました。

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