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浦河百話 第百話

浦河駐屯軍略史―軍靴の音が通りすぎた十年

 浦河に最初に軍隊が駐留したのは、旭川の陸軍第七師団工兵第七連隊第三中隊が、“大発”“小発”などと呼ばれた舟艇(しゅうてい)とともに、浦河港に回航してきた昭和十二年の春のことである。この第三中隊は前年の十一年六月、第七連隊で新たに編成された隊で、漁業従事者から成っていた。二階堂中尉を隊長とする総員約百三十名の部隊で、後に“船舶工兵隊”と呼ばれたが、新たな作戦訓練のために、日本海の岩内に集結した。

 この新編成の中隊は、後の作戦行動からみれば、南洋地域の攻略のための部隊で、戦闘部隊を目的地に安全に上陸させるための舟艇部隊である。中村 博によれば旭川のほか広島、久留米、四国善通寺、高城秀顕によればのちに山口県矢内、京都などでも編成されたという。しかし北海道のこの中隊の訓練がソ連側に洩れたとかで、急拠、訓練地が浦河に変更された。

 舟艇が停泊していたのは、現在の浦河港の西はずれで、「浦河冷凍株式会社」と「浦河漁業協同組合第二市場」のあいだである。浦河育ちの人なら舟艇港の名で記憶している一帯で、現在もなお、舟艇を格納したボロボロの巨大な木造の舟艇庫が残されている。その陣容は野砲、戦車、馬匹を運ぶ大発と、兵員四十名前後を乗せる小発などが約二十隻、ベニヤ造りの偵察艇(約七トン、二四㌩)と、戦車砲、旋回機関銃二座、発煙装置を備えた約二〇トンの装甲艇、伝令艇などから成る一隊である。


 
  十二年当時兵員が宿泊した場所は、浜町通りの浦河冷凍に隣接した高津水産の元缶詰工場だったが、十三年には堺町を東西に分けている現向別線から元の浦河第一中学校跡地にかけて、数棟のバラック兵舎を建設した。兵舎とは名ばかりで、実体はどうやら馬を収容するつもりだったらしく、後には確かに馬小屋となった。通路は土間、寝る所は板敷きで、無論天井も内張りもない。冬になれば吐く息で頭から胸にかけてまっ白になる。雨の日には褥(しとね)がグショ濡れになった。“褥”とは書いたが、実は燕麦ガラで、当初は支給された毛布二枚を持ってその中へ潜りこんだという。十五年に大兵舎(後に元浦河第一中学校となる)が建てられたときは、まさに極楽で、このときは藁蒲団に毛布六枚がきちっと規定どおりに支給された。

 食事は六割支給とかで、規定量には達していなかったものの、浦河の場合は副食が豊富だった。このことは終戦に至るまでさまざまな部隊が浦河を通過したが、どの人も異口同音に浦河駐屯時代の食事が群を抜いて良かったと述懐する。肉、野菜が豊富なだけでなく、メヌキ、タラ、マグロ、イカなどと、筆者の調査に答えてくれたすべての人から、スラスラと口を突いてその名前が出てくる。軍務が休みの日には舟艇で沖へ出て、夏であればマグロ、秋であればイカを釣ったのだという。

 しかし訓練は厳しかった。夏冬問わずの上陸訓練で、初年、古参、補充など兵の別なく、最初は港内で、練度が上がってきたら井寒台の浜、さらに東栄の浜へと訓練海域は変わった。偵察艇が先発して敵状を確認し、次いで合図とともに沖合から大発、小発の上陸用舟

艇が全速発進する。岸の手前五〇メートルで扇形に二本の錨を投げ入れ、船を安定させながら砂浜へ突っ込み、前方の開口部を開いて兵員を上陸させるという段取りだった。一本の錨の落とし方が遅れるだけで、船は簡単にひっくり返ったし、横波で舵輪を切り損なうと、雑作なく転覆した。高城によれば“まるでカヤすための訓練だった”といわしめるほど。失敗すれば港まで泳いで戻らされることもあった。波間に戦闘帽が見えなくなって初めて、舟を戻して助け上げる。泳げぬ者は大体虫の息だったが、人口呼吸すれば簡単に息を吹き返した。そんなやり方で事故は起きなかったという。訓練のスタイルもいい加減で、支給品の靴が弱くて使い物にならず、ワラジばきだった。上も下も作業着一枚で、夏も冬も同じ格好だった。その姿で何度も寒中の海へ跳び込まされた。あまりの辛さに自殺者も出ているほどである。

 この訓練に、札幌や旭川から来た輜重(しちょう)、騎兵、自動車などの部隊が参加し、たびたび実戦さながらの訓練が繰り返された。こうして三ヵ月、あるいは六ヵ月の訓練の後、中隊は広島へ派遣され、全国の船舶工兵隊(四箇中隊)が集まり、戦艦、御用船(母船)なども参加した大演習を行った。浦河―広島間を、数人で、あるいは中隊全部で何度も往復しながら、来たるべき日を待っていた。

 昭和十四年十二月、まず草木中尉が五十名前後を率いて広州湾上陸作戦に従事するため出発して行った。太平洋戦争が始まってからは、ジャワ、ニューギニア、ガダルカナル、ラバウルなどの上陸作戦に、浦河から参加している。また昭和十七年四月、浦河を出発した当

時の隊長富沢志郎中尉率いる第三中隊全員は、台湾の高雄に集結していた。ここで各地から来た部隊と合流し、訓練を重ねながら待機し、同年十二月ビルマへ転進して行った。留守部隊として高尾から浦河に帰任した高城は、十八年六月に旭川の工兵隊に戻っている。

 次に浦河に駐留した部隊は、広尾からオホーツク沿岸の警備に当った、通称“熊部隊”と呼ばれた旭川第七師団直属の衛生隊である。昭和十八年九月頃から十九年夏までで、喜多建一中尉が率いていた。喜多はこのとき妻子を伴ってきている。千島からの帰還兵、難民などに備えた部隊というが正確には判らない。喜多によれば、衛生隊の移動時に隊の荷送と安全を受けもつ中隊だった。兵員は約三百名で、馬が三十頭以上いたという。同隊は浦河小学校周辺から潮見ヶ丘、そして堺町に分営していた。十九年の夏に師団本部のある帯広に撤収している。 喜多の隊が引き上げた直後に浦河入りしたのは、太平洋岸の沿岸警備に当たった旭川第七十七師団、通称“稔部隊”の騎兵一個連隊八百名である。堺町の大兵舎を連隊本部として、二十年五月まで駐留した。稔部隊の師団本部は苫小牧にあって、日高沿岸に米軍が上陸した際は、撤退しながら日高山脈深く入り、山越えして早来に集結し、ここで米軍を迎え撃つ予定になっていたといわれる。

 この連隊は三百頭からの馬を引き連れ、機関銃隊、速射砲隊などもその指揮下にあった。浦河に来た当時、堺町の兵、廐舎はすでに撤去されており、同隊の松浦 勝中尉によれば、このとき新たに掘っ立て小屋を建てて、兵員馬匹を収容したのが、戦後引揚者住宅と呼ばれたものだとしている。同隊が二十年五月に鹿児島へ転進したあとは、増田少尉なる人物が残務処理をするために日高支庁に残ったという。

 いまひとつその存在を明らかにできないのが暁部隊だが、この部隊に関しては、本書「暁部隊の殉難」の項で書いたので詳細は省く。この部隊は本州で編成された部隊のために詳しいことは判らないが、船舶工兵隊が浦河を出発してしまったあとに、上陸用舟艇部隊として浦河に駐留した部隊である。十九年五月に厚賀沖、浦河港入口で犠牲者を出したため、町民には深く記憶されている。

 このような大きな部隊でないにしても、浦河には他にも小部隊があった。前述の喜多建一によれば、浦河滞在中、青森県大湊に司令部のあった海軍掃海隊の支隊が停泊しており、交互に衛兵を出した覚えがあるという。また船舶工兵隊が駐屯しはじめたときから、大通三丁目角の梶田薬局二階に憲兵隊の分駐所があった。さらに栄丘の頂上、現在NHKのラジオ中継所となっているあたりに、所属は不明だがどこかの通信隊があった。この栄丘の中腹一帯、今の町の職員住宅、税務署官舎、営林署官舎のあるあたりは、当時将校住宅になっていて、朝夕従卆が馬で送り迎えする姿が忙しかった。このため、この付近には二座の旋回機関銃の銃座があった。

 これらのことを考えると、単に浦河に大勢の軍隊が駐留したということだけでなく、浦河は昭和十年代、日高ではまさに“軍都”といってもよい町だったのである。


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