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沿革

昆布採り画像

 「うらかわ」という地名は、アイヌ語の「ウララペツ」(霧深き川の意味)から転訛したとも伝えられ、江戸時代に松前藩が幕府に献上した『元禄御国絵図』にもすでに「浦川」として記されています。

 当時は、元浦川河口付近(現在の荻伏市街地)が浦川と呼ばれ、松前藩によって浦川場所(会所)が設けられており、主として漁業による交易が行われていました。

 幕府直轄時代になって浦川場所がトマリ(現在の浦河市街)に移されたため、そのまま地名として呼ばれたとされています。その後、松前藩に復しましたが、安政2年(1855年)に再び幕府直轄となりました。

 明治時代に入ると、開拓使の移民政策により、海陸資源の豊かなこの地に新天地を求めて内地人の移住が盛んとなり、明治4年に、西舎、杵臼に九州の天草郡や大村郡からの移民者が入植したのをはじめ、明治14年~15年には2次にわたり開拓会社赤心社の集団移民が行われました。開拓は苦難の連続でしたが、開魂屈することなく、明治20年代には軌道に乗りはじめました。

 一方、浦河の港は昆布をはじめとした海産物などの物資の集積地として賑わいをみせ、明治5年に開拓使によって浦河支庁が置かれてからは、郵便局、裁判所、警察署などの諸官庁や銀行などが相次いで設置され、日高地方の行政・経済・文化の中心地として発展してきました。

 明治34年から浦河支庁長となった西忠義は、道路橋梁の改修や日高種馬牧場(旧農林水産省日高種畜牧場)の設置など浦河をはじめとする日高開発を大いに進めました。

牧場画像

 明治35年、2級町村制施行により、浦河町、西舎村、杵臼村、荻伏村の浦河町外3か村組合となり、浦河に組合役場を設けましたが、明治43年に荻伏村が分離独立して浦河町外2か村組合となり、大正4年には、1級町村制施行により、浦河町、西舎村、杵臼村の3町村を合併して浦河町となりました。

 昭和に入っても、浦河港の完成や鉄道の開通に伴い、日高における浦河の役割は重要性を増し、水道の設置や浦河実践女学校(浦河高校の前身)の設立、日赤浦河療院(現在の浦河赤十字病院)の開院など生活環境も向上しました。戦後の復興も農林水産業を中心に順調に進み、昭和31年には、荻伏村との合併により現在の浦河町となっています。

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